布団から

考えていることの記録です。

SF小説を読みながら

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家の近くの塀に生えていた植物。どんどん伸びるので観察するのが楽しい。かわいい。


わからん〜〜〜全然わからん。

自分の思想や態度が決まらないままの日々を過ごしている。

家に居られる人は家に居た方がいいと思うけど、家にずっと居るの辛いよね。公園で遊んでる人とか出かけてる人を見て責めるのも違うよなと思う。それぞれいろんな事情があるし、権利もある。

 

自分の気持ちは定まらなくて気持ち悪いけれど、これこそが在るべき状態なのかもしれない。もし今の東京に、もっと厳格な外出規制、理由なく外に出ていたら罰金、というような状況があったとしたら、それは自由が奪われているということだから。新型の感染症が流行っているという今の状況に対しては色々な「正しさ」があるはずなのに、その「正しさ」が一律になってしまっているということだとも思える。

 

感染拡大を防止するために外に出ないというのも一つの「正しさ」だし、とにかく春を楽しみたいんだ!とか友達に会いたいんだ!というのも同じように「正しさ」だと思う。

私自身はといえば、どちらの正しさに振り切ることもできなくて、なんとなく友達と会う約束はせず、手を洗い、電車は乗らず、でも書店でバイトを始めた。外山恒一のことが結構好きなので、彼のように強い思想と論理に基づいて一貫した行動をしたいぜ、という気持ちもあるけど、自分の心はブレブレだから、とりあえず誰にも非難されないようにマスクしてごまかしている。正しさが色々ある中で、ただ一つの正しさしか許されていない空気を感じてしまって、ネットを見るのがちょっと辛い。

 

私は、人を傷つけない範囲で、色んな人が、それぞれのやり方や考えでもって、生きたいように生きられたら良いなと思っている。だから、今のぬる〜っとした"自粛要請"はそういう意味では理想なのかもしれない。

でも、外に出てる人が感染症にかかって医療が崩壊しているんだよ!という状況についてはその「人を傷つけない範囲」を超えてしまうような気もしてくる。しかし、医療崩壊は外で遊んでてコロナに感染した人のせいで起きているのではないよな。

感染症が流行る前から医療機関は人手やベッド不足だったように思う。色んな余裕を切り詰めて切り詰めていってしまったこと、そういう政治判断がなされてしまったこと、結局のところ、医療現場の人手不足について無関心であった自分のせいだな。もっと早く気づけた気がするのに。

 

このブログを書いている今も「でも」とか「しかし」を繰り返していて、やはりブレていることを改めて自覚している。読んでくれた人にも伝わっているだろう。

 

政府については、毎日びっくりさせられているが、結局のところ自分が腹が立っている理由は、個々の愚策そのものに対してではないように思う。なにか判断をするのならばそれに相当する理由があってほしいし、それを説明してほしいのに、一貫した方針もないし、根拠も理由もわからないままにどんどん事が進んでいったり取り下げられたりすることに腹が立っている。

ただ、悲しいかな、毎日の発信を追っていると、政治家たちは、おのれの想像力の及ばない弱い個人について、本当にどうでもいいんだろうなという感じがしてくる。政治家の家に生まれた政治家に対して、想像力を持てよと言っても無理な話なのかもしれない。

しかも、それが自分たちが選挙で選んだ人たちによってなされているのだから、民主主義の限界ってこういうこと…?と感じてしまう。同時に、署名活動や、ネットの書き込みに反応して少しずつ修正されている様子を見ると、それでもまだ民主主義って機能しているようにも思える。こんな風な状態を作ってしまったのもまた私なんだよな。

 

ていうかそもそも私は国会議員のプロフィールについて知らなすぎるから、この国会議員のリストをちょっとずつ見てってみることから始めようかな。

http://sp.senkyo.mainichi.jp/giin/list.html?sort=aa

(とりあえず一番自分に年齢が近い女性議員は鈴木貴子氏で、鈴木宗男氏の娘だった。)

 

自民党の有力政治家の過去の著作や発言を分析していくという『自民党 価値とリスクのマトリクス』(中島岳士・著)も気になっている。

プチ鹿島の政治ウォッチ観(?)が好きなので、彼の推薦なら面白そう、と思って。

 

 

これは次に読むとして、今読んでいるのはチェコSF短編集』(平野清美編・訳)

 

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挿画はヨゼフ・チャペック。ちょっと怖い。

 

1912〜2000年に書かれた新旧11の短編。編者のヤロスラフ・オルシャJr.は大学で東洋学、アラビア学、国際関係など学んだ後、80年代にSF月刊誌を発行、90年代以降は色々出版しつつジンバブエや韓国などでチェコ大使を歴任、というなんだかすごい経歴の人だ。

まだ全編は読めていないのだけど、今のところで印象に残ったものを紹介しておく。

 

『再教育された人々ー未来の小説』(1931) ヤン・バルダ

徹底管理された社会主義体制の国を舞台にしたディストピア小説。子どもが生まれたらすぐに親と引き離され、養育施設で育てられる。伝統的な親子関係は解体され、誰が自分の子どもなのか、誰が親なのかわからない。かつての親子関係やその愛情について書かれた「古書」は読むことすらも禁止されている。古書を発見し、その内容に感化された3人の裁判が描かれる。(この本に載っているのは裁判部分の抜粋)

 

産んだ子どもをすぐに取り上げられてしまうなんてひどい世界だと思うが、一方で、子どもが親から受けてしまう影響は大きいから、全ての子どもが親ではないものによって育てられるというのはある意味でとても平等。ふだん、資本主義の行き過ぎとか経済格差のエグさに怒りを抱えている方なので、なんかこの平等さに憧れなくもない。

でも、やっぱ選べるのが一番よね。親としっくりくるならそこで育ったらいいし、嫌な親からは離れた方がいい。

 

裏目に出た発明』(1960) ヨゼフ・ネスヴァドバ

主人公・シモンによる天才的な発明で、300人が働いていた工場が全て自動化した。全世界にその発明は広がっていき、シモンは億万長者になり、妻を捨て若くて美しい女性とも交際をはじめるが…という話。

全てが自動化した世界、現在少しずつそれは始まっている。人間がやっていたことは機械がやってくれるから生産性に縛られずにもっと自由でのんびりした暮らしができるようになる!と思っていたら、実はその自動化したものに合わせてどんどん世界は加速しているように思う。

長い暇と退屈、世界のスピード、貨幣の価値、コロナ禍のいま考えていたことと重なるテーマだった。 

 

 

今日はこんな感じ。これを書くのに2時間以上かかってしまった…。もっと早く上手に書けるようになりたい。